第3回「日本の伝統‟能”の世界を通して見る教育」【前編】

「未来の教育を語る」第3回のゲストは、塩津圭介さんです。喜多流塩津能の継承者として伝統を守りつつ、若者へ能を伝える活動や学びの場を提供しています。塩津さんと能をとおして盛り上がった教育の対談を前半・後半でご紹介します。

前半は能の世界観についてお話を伺いました。

㈱ビッグトゥリー

代表取締役 髙柳 希

ディスカッション好きが高じて

事業を立ち上げた

能楽シテ方喜多流/アジア太平洋大学非常勤講師

塩津 圭介

3歳から能に精通し、現在は若者能「お能であそぼっ♪」

など全国で広く活躍する


伝統芸能の継承者 塩津さんが子どもの頃に感じていたこと

ーーまずは二人の自己紹介をお願いします。

 

高柳:コミュニケーションとディスカッションを専門に教育の会社を経営しています。

ディスカッションが大好きで、その思いから起業し、今は念願の中高生向けディスカッションスクール(Dコート)を

オープンしました。苦戦していますが(笑)

塩津さんとはハワイと日本の合同プロジェクトで知り合いました。今は塩津さんに能を教えていただいています。

 

塩津:そうですね、ハワイの若手実業家と一緒に学ぶ「HAPA」というプロジェクトでしたね。

それ以来、福岡に来た際は度々お会いしていて、今では高柳さんに私のお稽古「お能であそぼっ♪」に来てもらっています。

私の家は能楽師の家系で3歳で初舞台を踏みました。

現在は各地でお稽古や舞台に立っています。他にも大学で能楽を教えています。

 

高柳:そんなに小さな頃から能楽師として進んできたのですね!

“継承する”って大変ですよね。能はそもそもやりたかったことだったんですか?

 

塩津:正確にいえば「やりたかった」ではなく「辞めたくなかった」といえますね。

「すごく好きだった」とか「やりたかった」というわけではありませんが、幼い頃から始めた稽古を辞めたくなかったのです。

 

高柳:すごく複雑な気持ちが込められた一言ですね。伝統芸能を継承する方々は同じように感じていそうですね。

どういう心境なのでしょう?

 

塩津:そう、みんな一緒のようなところがあります。幼い頃からその世界で生きて、受け継ぐことやその境遇やプレッシャーなど、とても大変です。けれど、「辞めたら負け」と感じていました。

 

高柳:「本当は違う夢があるのに」と苦悩しているイメージがありました!

 

塩津:そういう意味では小学校の卒業アルバムに「パイロットが夢」とか書いていますよ(笑)

 

高柳:受け継ぐ不安や重荷など感じたりしましたか?

 

塩津:そうですね、“重荷”と考えられる年ごろには、周りに同じ境遇の人がいました。

老舗菓子店の十何代目とかオーナーの息子とか、全然違う業界で。

そこで「これは何をやっても何らかの重圧はあるな」って思い直しました。

 

高柳:なるほど!ちょっと私とは別世界!

 

塩津:他にも要因はあって。学校で将来の夢とか生い立ちを作文で書きますよね?

周りの大人から話を聞いてそれをまとめている間に、家自体が駅伝のチームみたいな気分になったんです。

 

高柳:駅伝チーム?どういうことですか?

 

塩津:祖父が明治生まれ、そこから大正、戦後に父親が昭和・平成とつないで、今そのタスキを半分自分がもらっている

気がしました。ということは、ぼくが辞めるとチーム全体がゴールせずにリタイアになる。これは走らなきゃ!と。

 

高柳:今まさにバトンタッチの瞬間ですね!どこがゴールになるのでしょう?

 

塩津:自分のゴールは次の人、後輩や子どもなどへタスキを渡すことですね。

 

能の世界観が深すぎる!!

ーーずばりお能とはなんですか?

 

塩津:能は今から700年前にできた、謡と舞による歌舞劇です。

一応、現代のカテゴリーでは舞台芸術ですが、それは能の発展や理解の妨げになっている解釈でもあります。

舞台芸能はお客様を喜ばせるためのものです。でも、お能はそうではなく神事に近いものです。

言い換えるならお茶のお手前とか。習字の字を書いている途中、彫刻を作っている途中、過程を見せているようなものですね。

 

高柳:えぇ?それはどういうことですか?ちょっと難しいです。

 

塩津:本来、お能は作られた瞬間消えるもの、だから製作段階を見せている。

つまり、舞台芸術以外の多くの芸術って出来上がった作品を見せているでしょう。絵とか写真とか。

 

高柳:うーん、もう少し説明お願いします。

 

塩津:「過程をお見せしている」というお能の感覚、世界観です。さらにそれは、その会場にいる方とも一緒に作り上げている状態です。だから完成させたものでお客様を喜ばせるということではありません。

 

高柳:少しだけ分かるような気がします。私も能を習っています。その時の練習も見られるためにやってるわけではないんですよね。すごく不思議な感覚です。

 

塩津:そういう意味では人生そのもの。人生は「人にどう見られたいからこう生きよう」じゃないですよね。

 

高柳:そうですね、私はその能の考え方がすごく好きです。

 

塩津:それをカテゴライズするものが他にないので。舞台芸術としてエンターテイメントショーと思って能を見に来ると面白くありません。

 

高柳:私のイメージでは、舞う人も謡う人も見ている人もみんな自分と対話するイメージです。

 

塩津: そうそう、人が自分と対面しているところをほかの人が見ている状態ですね。

 

高柳:なるほど!そういうこと!(笑)

 

塩津:もとは、日本は農耕民族で五穀豊穣を願っていたんです。晴乞いの踊りや雨乞いの踊りなどが田楽という土着芸能になって。

それが今は地方で"神楽"として残っています。

そこへシルクロードから伝わったエッセンスで“猿楽”が出来上がります。それが後の能ですね。能を作った観阿弥、世阿弥は猿楽師です。

みなさんは室町文化とかで少し学んだかもしれません。

 

高柳:あったかも・・・覚えていない(笑)

 

塩津:能は、学校教育の中では文化として学ぶものや古文として憶えるものに位置しているので、先に述べたカテゴライズが

少しずれてしまいます。人と向き合う、人間の根源に迫るものを文学やアートでひも解いているから、結果的には割り切れない

部分を理解できないですよね。その"割り切れない部分"まで行くと能がとても面白く感じます。

そこへ到達するには殻を破らないといけないので「能ってつまらないなと」なってしまうのでしょう。

明治維新以降、先生対複数で行なう合理的な教育が進んだことで、能を受け入れる教育がなくなってしまったのだと感じます。

能を理解するには徒弟制度で学んだ方がよいですよ。マニュアルではなく肌で感じて学ぶスタイルです。

 

 

         ↑大堀能楽堂 能舞台の「鏡板」に描かれた松 神様に舞っているという意味がある

 

 

 

能とは、人生や生き方そのものである

ーー能から私たちが学べることはなんでしょう?

 

塩津:能は人生や生き方そのものです。自分自身とあらゆるところから向き合えることに学びがあります。

人の強みは勉強だけではないでしょう。勉強が得意な人、運動が得意な人、人と接するのが得意な人、

その人の一番長い物差しでどういう風に能を見られるかなんです。

 

現代のエンターテイメントは見方が決まっています。

製作者側が意図したものに、どこまで面白いと感じることができるかなんです。

お能はもっと形のない、〇にも△にもなるものです。

 

高柳:同じ自分でも「この瞬間の私にはこの作品が一番響く」というものがありますよね。

能をやることで自分を知ることが多いですね。

自分が落ち着いているときは舞も落ち着いているし、バタバタしているときは動きも雑になってしまう。

自分を知って舞うというより、舞って知るみたいな。

 

塩津:そういう意味では、能は観るよりやるものですね。

 

高柳:能を舞うときには型があるからその型と自分が向き合いながら楽しんでいます。

能を観るのが難しいといわれる理由は、今、世の中にあるものの中でも圧倒的に解釈の自由度が高い世界だからだと思います。

 

塩津: 「自由とは何か?」って話になりますが、能は作った人・やる人・遊ぶ人の目論見が違うのがサスティナブルなのだと思いますね。

作った人の想定外に、使い方や遊び方が変わってみんなに広がっていくものです。

スタート時点の思いが忘れ去られても残るものって、解釈の幅が広くて作る人の想定していない展開が創造されていく。

これこそ永遠の最高の発明といえるのではないでしょうか。

 

能とディスカッションの意外な共通点「自分で自分を育む力」

ーーお能から学ぶことは多そうですが、私たちはどのような気持ちで観ればよいでしょう?

 

塩津:初めてお能を観る人には"生のオーケストラを観ながら絵を観ている"と思うといいでしょう。

"背景に何があるか想像する"ということが能を観る上で大切かなと思います。

 

高柳:私は観る側が殻を破るのも大切だと感じます。「正しいものを見たい」とか「正確なものを教えてほしい」と思うと、能は観るのが難しいですね。「どういうシーンで、どういうストーリーで」ってことが気になる人はきついかもしれない。

 

塩津:能に答えはないですからね。自分自身で向き合って、自分自身で感じる、そこから得る学びです。

自分で「自分の姿がきれいになった」と感じることが一番です。

 

高柳:日本には答えのある教育が多いので、能は正反対ですね。

Dコートでも、親御さんから「この子がどう変化したか」っていうことや、本人からも「自分の成長を見たい、何の成果を得たか

正確に知りたい」って声はよく聞きます。能には舞える数が増えるってことはあるけど級とかないですよね。

ディスカッションにも級や段階はありません。

 

塩津:逆に言えば級や試験で何かを得てもそれは第三者が決めた基準です。「25メートル泳げたら何色の帽子になります」とか。

 

高柳:自分自身で「何かを得た!」って感じる場面は日常で意外と少ないですね。

 

塩津:人は自分では成長や実力を感じにくいのだと思います。

それを分かりやすくするために帽子や級があるのではないでしょうか。

教育的にアメとムチでいえば、アメをもらった(なにか証拠をもらった)経験から「自分は成長した!」って“錯覚”しているのだと思うんです。

 

高柳:錯覚?!

 

塩津:錯覚といえば言い過ぎかもしれないけれど、自分の基準で「これを得た!」と感じられることは少ない。

特に子どもは、周りの大人が基準や価値をつくってくれることによって成長や価値を感じられるのだと思います。

子ども自身が「成長した!」と思うことは少ない。

 

高柳:子どものワークショップでも答えや評価基準がない、自由度が高い内容ほど不安になる生徒が多いです。

能もディスカッションも、自分で感じることや解釈してみることの充実感を知ると、隣の人はどう感じたのか知りたくなってきますよ!

 

塩津:そういう意味では、能を観るのは子どもの方がはるかに上手。

能は自然に近いことで、石ころを拾って遊ぶとか、それをどう使ってどう遊ぶか考える作業に近いので子どもの方が得意ですよね。

 

高柳:先日Dコートのプログラムでエアー卓球というワークショップをやりました。

道具も何も使わずに卓球の試合をするワークです。もちろん審判もいます。その審判の子が、すごくリアルに「今4対0だから!」って

いうんです。「今サーブがダメだった」とか。ものすごく頭の中で想像しています。

外から見れば、ボールもないから「何をやっているんだ?」って感じなんですけどね(笑)

"自由に見る"ということですよね。これはすごく楽しいことだと思います。

夢中になると何の道具もなくても卓球できるのですから。


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グローバル・政治・社会・哲学・自分・友だち、身近なことから社会のことまで幅広いテーマのディスカッションを通じて、豊かな視点や興味関心のアンテナを育みます!また、一人ひとりの個性を尊重し、「自分らしいコミュニケーション」を大切にしながら、総合的にコミュニケーション能力を高めることができます。これからの時代に必須のコミュニケーション能力をDコートで伸ばしませんか?